徒競走ごときと、本物の競争と。または、戦いに勝って戦争に負ける国もある。
いやま、皮肉つか洒落とか、だとは思ってるんだけども。
彼等は一貫して「競争してトップを目指す」という世界を否定してるんです。
そもそも「トップを目指す」ってそれ、「競争」なんだろうかと疑問に思う。レースではある。また、競争は「勝ち負け」が決まるゲーム、というのも違うと思う。なんだろうこれ。
競争しなくていいじゃん!
勝ち負け決めなくていいじゃん!
友愛だぜ、友愛!
この世に競争はある。その中で順位はつく。しかし、徒競走と違ってそこにはゴールも号砲も無い。ルールが無い。だから勝負は決まらない。勝ちを判定できない。
くわえて、「トップを目指す」ことが最適な戦略かどうかもまた、分からない。10位の最適戦略は2位と組んで9位を潰すことかもしれない。
なるほど、田中耕一は「トップ」をとってノーベル賞だ。けど島津は質量分析で儲かったわけじゃない。普及させたのはHillenkamp、Karasだか、彼らは(おそらく)それに見合う立場や影響力を得ているだろう。
では「競争」の「勝者」は誰か?ゴールをどこに定義するかでそれはどうとでも取れる。ゲームでいえば「勝利条件」の設定次第というわけだ。(コーエーのゲーム、信長とか三国志で、「天下を統一」するまでエンディングを見られないことに疑問を感じたことは無いだろうか?あるいは、第二次世界大戦を扱うゲームがあるとする。もし歴史に反して大日本帝国が、連合国の反抗をどこかで防ぎきって講和に持ち込んだとして、それは勝利か敗北か?)
研究の「勝ち」も現実は複雑だと思う。一番乗りで論文書いても、後発のほうが被参照数が多ければ、それまで。影響力に繋がらないっつか、たとえば学派とかは為せない。実際、論文出した後の学会向けの宣伝活動などかなり重要だ。理解者が増えると、いいことがたくさんある。たとえば査読に通りやすくなるし、予算もつきやすくなる。それはコネとか馴れ合いなんかではなくて、協調とか同盟とか、そういったものに近い。そしていかなる学派も仮説も永遠ではありえない。国家に永遠の敵はおらず、永遠の味方もいないように。
さて、「トップ」とやらに付けられる値はいくらだろうか。