ついったでSF大会要不要とか盛り上がってたのを見てちょっと書いてみた件

なんかわからんがSF大会についての議論のまとめを読んだ。SFは好きだがそう熱心な読者ではないです、というのがおれであるがそれはどうでもよくて、なんというか、「大会いかにあるべきか」であそこまで盛り上がれる会合というのも世の中にそうはないのではないか。来たい奴は来い、そう思わない奴は別に来んでええよ?式の集まりしか知らないので、その熱さが逆に新鮮だ。「コミケいかにあるべきか」とかでも、もちろんそういう話もいさかいもあるそうだが、こうも熱く語られることなんかきっとないんじゃないかと思う。


 コミケであればそのコンセプトはかなり少数の人間がきちんと管理していると感じていて、それが明示された上で「来たい人は来てね」である。そしてさらに言うなら、運営の少なくともコアは、「このコンセプトに沿う場が必要なのだ」と確信しているだろう。彼らは参加者が減ろうが増えまいが根本的には気にしないのではないか(実務の変化を気にすることはあるだろうが)。30万人だろうが300人だろうが「同じコンセプトのもとに」それは開催されるだろう。


 SF大会、行ったことはない。行ってみようかと思ったことはある。でもそんなんある意味どうでもよくって、むしろおれが聞きたいのは、「SF大会をぜひ開催したい」という人(たち)による、「なぜSF大会みたいなのを開催したいのか」という動機なのだった。


 学会なんかでも、「この学会いらなくね?もうやめねえ?」みたいなことが参加者の間で囁かれるようなものはある。多くは年寄りか(かつての)学派の同窓会である……ならもう懇親会以外の機能はいらないのだ。
 集まることそれ自体が目的になった集まりは、当たり前だが排他的になる(同窓会の新参者、なんて語義矛盾もいいところだ)。にもかかわらず、そうした集まりに限って、参加者の減少や新規参入の少なさを嘆き、問題視し、人を動員したがるというのは、興味深いとぼくは思う。


 そして経験上、そうした集まりが息を吹き返す方法は一つ、「明確なコンセプトのもとに集まりなおす」しかない。SF大会の現状なんか知るべくもないけど、もしそれが必要だと感じる人がいるのなら、必要性を言明しなおすしかない。運営手法など二の次だ。それが出来ないなら、結局同窓会なんだろう。
 さらにいうなら、別に同窓会をしたい人は同窓会をしてて構わないし、コンセプト明示できる人はそれぞれにやればいいし、ひょっとしてそれらを全て包摂できるのがSF大会という場なのだ、というなら、それでもいいくらいかもしれない。


 ただ、コミケから得られる教訓ではないかと思うことには、運営の中枢に当たる人間は、少数で固定したほうがいいのではないかということだ。何のための場/集まりなのか、それを堅持し続けるために。そしてコンセプト(=運営中枢)の数だけ、大会はあってよいのではないか、と思う。